To see what you can’t see.
人と話していて、知らないことを話していると、それがなんなのかわからない、ということがある。
その言葉が指しているものがわからない。
その場合、その言葉が指すものがパッ目に映ったとしても、なんとも思わず何も気にならない。
つまり、知らないということは見えていないのとほぼ同じだ。
もっというと”無い”のと同じことになる。
酸素という言葉を知らなかった場合、この目に見えていないものを認識することはなく、何も感じないことになる。
酸素を知ったとたんに、あーこの見えない空間には酸素があってそれを吸っているんだなー、見えないけどー
と、この見えない空間の酸素を認識できるようになる。
なので、言葉を知れば知るほど、自分の世界に存在しているはずの見えないものを、存在として認識することができるようになる。
人間はやはり目に見えるものを強く信用していて、目に見えないものを可視化しようとするので、見えないものを感じ、気づいたらそれに名前をつけ、概念を紐づかせて、認識できるものへと変化させる。
この何かに気づいて言語化した人たちは天才すぎる。
そして、その見えないものをいま探そうとしても、自分が知らないというだけで、ほぼすべてに名前がついていて、その言葉を知ってさえいればもともと見えていたものだ。
見えないものを見るためにはもっと多くのことに興味を持ち、多くのことを知り、多くのことを勉強しないといけない。
と思うが、わたしはその能力に限界があるので、自分に見えていないものを見える人を大切にし、否定をせずに教えてもらえる方法を選ぶ。
そのように考えると、世の中には多くの考えや、違う意見も存在するが、同じ世界に存在しているわたしには見えないものなだけで、常に調和をとって存在していたことがわかる。
そしてそれらは言葉にすることで見えてくる。
もともと存在していたそれが見えるようになる。
見えるようになると途端にそれを自我をぶつけ窮屈に思ったり、自分の考えと近しい違うものに置き換えたくなる。
見えていない時は気にもなっていなかったのに・・
では、見えるようになったそれが自分と合っていない場合それは邪魔なものなのか
そう、邪魔で大切なものだ。
人は自分と同じものが心地いいと感じる。
自分と違うものは受け入れようとしてもなかなかそれはできない。
ただ、存在を認めることはできる。
そして、その存在を認めることでより自分のことを強く認識することができる。
逆もしかり。
それは、自分が正しいとか、相手が正しいとかそういったことではなく
どちらも存在している
ただそれだけ。
光という言葉ができると、影や闇といった反対の言葉ができる。
イメージ的には光は良くて、闇は悪い存在、のように思えるが
そんなことはなく
光は光、闇は闇。
そう存在しているだけ。