World is mine.
日々なにげなく生きているうちに、自分の心は世界に飲み込まれていく。
外に出ればたくさんの人が歩いていて、自分はその多数の中の1でしかなく、
その1は限りなく無力で、無くてもよい1のような気さえしてくる。
そう考えているこの1は、いなくなったって誰も気づきはしない、とか
自分がいる意味はない、とか自分では測りかねるその意味を、そんな風に考え、
それならそれは”たしかに無くてもよい1”
そんなことを思いながらまた”たしかな1”として世界に飲み込まれて生きていく。
待て待て待て!(笑)
生きてる意味とかわたしもわからないよ!
自分が生きている意味を何かにすがりたいがために無理やり見つけようとしても
これが答えだ!ってものがあるのだろうか??
わたしの生きてる意味は自分が答えを出すのではなく、他人が答えを出してくれる。
結果それがわたしの”生きていた意味”になるのではないかと思う。
なので、わたしが現時点で生きている意味は、”亡くなった大切な人や友達を想い、語る”ぐらいのことでしかないように思う。
つまり生きていた人を ”生かす” ”紡ぐ”
もはや本やデータと同じ(笑)
でも、それは生きている人にしかできないから。
わたしの人生に関わったことある人のことを、わたしの口で、わたしの解釈で紡ぐ。
これはわたしにしかできない。
そのように考えていることをぺらぺらとお酒でも飲みながら友達と話し、
わたしがいない時にでも、残っている人がまたお酒でも飲みながらそんな話をしてくれたら
それが”わたしの生きた意味”
になるのだと思う。
っておーい(笑)
そういう話がしたいのではなくて、
世の中をゲームをプレイしている目線で俯瞰で見てみましょ!
という話です(笑)
たしかに世界はバカでかくて、その大きさゆえに意味や価値が薄らいで感じることも多いけれども
”ロールプレイングゲームをしている自分”
この目線で世の中を見てみると
すべてに意味があるはず。
ただ、わたしにとっては関わっていないものだったり、見えないものだったりするということはあるけれど。
ゲームでは主人公をコントロールしながら行きたいところに行き、町の人に情報をもらいながら進んでいく。
この”町の人”というのはわたしが何日もかけてやっているゲームの中でたぶん10秒しか会話していない”ほぼいない人”ではあるけれど、とても大事なキーパーソンだ。
ほぼ関わってないのにキーパーソン!!
思い返してみて。
自分の人生の中で、誰か仲の良い友達と接して顔を見て話している時間て想像以上に少ない。
つまり、ほとんどのことが自分には見えていない世界の中で動いていて、
友達だと思っているわたしのキーパーソンは、わたしの人生のたいていの時間は頭の中だけに存在していて普段は見えていない。
そして、気になる(なってないか(笑))ゲームの”町の人”はわたしには見えていない時もあの町で自分の人生を生活している。
誰かにとってわたしという存在はあのゲームの”町の人”つまりほぼ関わらない人になるわけだ。
みんな各々が主人公のロールプレイングゲームをこの世界で繰り広げている。
だから、他者の目線で見てしまったら、誰かにとってわたしが意味のない存在に感じることは当たり前のことで
自分は圧倒的自分目線で主人公の自分を動かして、目的にたどり着くようにコントローラーを握っていればいい。
この世界では、自分がコントローラーを握って、目的遂行のために、ゲームの中の自分を圧倒的自分目線で動かす!!
そして、同時進行で他人も自分のゲームをやっているので、求められたら自分があの”町の人”になってあげたらいい。
”町の人”をやっているうちによくわからなくなって、いつのまにか他人のゲームの”町の人”だけをやっていることにならないように、いつもいつも自分の心に聞いて確かめよう。
他人のゲームの1キャラクターだけになっていないか??
その他多数の中の1をやっているだけになっていないか??
それだと意味とか価値とかまたアレになります(笑)
自分が主役なのだから、もはや意味とかなくてもいいのだ。
自分の人生を生きる。
それだけでいい。
世界は広いけど、俯瞰で見たらゲームの全体像のようなもの。
わたしはゲームの中の自分というキャラクターを動かす者。
your world is yours.
あなたの世界はあなたのもの。
my world is mine.
わたしの世界はわたしのもの。